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いさかやの約束 – 季節を繋ぐ不思議な本屋の物語

「季節は人の心を映す鏡」と言ったのは、いさかやの店主・佐伯さんだった。

彼の言葉はいつも、ふとした瞬間によみがえってくる。特に季節の変わり目には。

東京の古い住宅街の路地裏に佇む「いさかや」は、表からは見えない場所にある。古い木造二階建ての民家を改装した本屋は、知る人ぞ知る隠れ家的存在だ。「本と人を繋ぐ」という佐伯さんの言葉通り、ここにはただの古本屋ではない魅力がある。

初めていさかやを訪れたのは、去年の春のこと。

桜が散り始めた日曜日、私は気分転換に散歩をしていた。いつもと違う道を行こうと、普段通らない路地に足を踏み入れたとき、古びた木の看板が目に入った。

「いさかや」

看板の下には小さく「古書・新刊取り扱い」と書かれている。本好きの私は、つい足を止めた。

細い路地を入ると、苔むした石畳の先に二階建ての古い家が見えた。窓辺には季節の花が活けられ、入口の引き戸には風鈴がかけられている。まるで昭和の香りを残したまま、時が止まったかのような佇まい。

ドアを開けると、古書特有の懐かしい香りが鼻をくすぐった。店内は思ったより広く、天井まで届く本棚が整然と並び、きちんと分類されている。奥には小さな読書スペースがあり、アンティークの椅子とテーブル、そして窓から差し込む優しい光。

「いらっしゃい」

静かな声に振り向くと、カウンター越しに微笑む男性がいた。40代半ばくらいだろうか。優しい目元と、少し疲れた表情が印象的だった。

「初めて来たんですが…」 「ああ、新しいお客さんですね。ゆっくり見ていってください。何か探しものがあれば言ってくださいね」

それが佐伯さんとの出会いだった。

その日は特に目的もなく、ただ店内を巡った。文学書から歴史、芸術、科学まで、ジャンルは多岐にわたる。新刊も古書も混在しているが、不思議と調和がとれている。

特に目を引いたのは「季節の本棚」だった。 四季それぞれの棚があり、その季節にまつわる本が並べられている。春の棚には桜や新生活の物語、夏には海や冒険、秋には実りや哀愁、冬には雪景色やクリスマスの本。それぞれの季節を感じられる仕掛けだった。

「この棚は面白いですね」と私が言うと、佐伯さんは少し照れたように笑った。

「人の心って、季節によって変わるでしょう?読みたい本も、季節で変わるんです」

その言葉に深く頷いた私は、春の棚から『桜の記憶』という小説を選んだ。著者は聞いたことのない名前だったが、なぜか惹かれた。

「それ、いい本ですよ」佐伯さんが言った。「春の終わりに読むのにぴったり」

レジで本を包む佐伯さんの手つきは丁寧で、本を大切に扱う姿勢が伝わってきた。包装紙は和紙のような風合いで、店名が控えめに入っている。

「また来てくださいね」

その言葉通り、私はまたいさかやを訪れるようになった。月に一度のペースで、季節の変わり目には必ず足を運ぶ。そのたびに佐伯さんとの会話が増え、少しずつ彼のことを知っていった。

彼は元々大手出版社の編集者だったこと。十年前に脱サラしていさかやを開店したこと。本を通じて「人と季節と記憶を繋ぎたい」という思いがあること。そんな話を、時間をかけて聞いた。

夏が近づくある日、私は夏の棚の前で迷っていた。その時、不思議なことに気づいた。

「あれ?この棚、前と本が違いませんか?」

佐伯さんは静かに微笑んだ。

「よく気づきましたね。季節の棚は毎日変わるんです」 「毎日?そんなに頻繁に入れ替えるんですか?」 「いいえ、私は何もしていません。棚が勝手に変わるんです」

冗談かと思ったが、佐伯さんの表情は真剣だった。

「いさかやの本棚は、訪れる人によって姿を変えます。あなたに必要な本が、自然と目につく場所に現れる。それがこの店の不思議なところです

にわかには信じがたい話だった。でも、確かに私が選ぶ本は毎回、その時の私の心に寄り添うものばかり。『夏の終わりの約束』という本を手に取ると、それは十年前に出版された、今は絶版になっているはずの小説だった。

「これ、もう手に入らないはずでは?」 「ええ、普通の本屋では見つからないでしょうね。でも、あなたにはこの本が必要なようです」

その本を読み終えた夜、私は久しぶりに亡くなった祖父の夢を見た。祖父と過ごした最後の夏の記憶。彼との約束。すっかり忘れていたことが、夢の中で鮮明によみがえった。

本当に本は私に必要なものだったのだ。

秋になると、いさかやはさらに魅力的な空間に変わる。店内に漂う紅茶の香り、窓から見える紅葉、静かに流れるジャズ。時間がゆっくりと流れ、心が静まる場所だった。

ある雨の日、私は仕事で大きな失敗をし、落ち込んでいた。無意識のうちに足が向いたのはいさかやだった。

傘を畳み、震える手で扉を開けると、いつもと違う温かさを感じた。暖炉が灯されていたのだ。

「こんな日は体が冷えるからね」佐伯さんが言った。まるで私の状態を理解しているかのように。

秋の棚に向かうと、『雨の日の歩き方』という本が目に飛び込んできた。手に取ると、それは挫折と再生についてのエッセイ集。まさに今の私に必要な言葉が詰まっていた。

読書スペースで本を開いていると、佐伯さんがそっと紅茶を運んできてくれた。「サービスです」と言い、静かに立ち去った。

茶葉の香りと本の言葉に包まれながら、少しずつ心が軽くなっていくのを感じた。帰り際、佐伯さんに感謝を伝えると、彼はただ微笑むだけだった。

冬のいさかやは、また違った表情を見せる。窓辺には小さなイルミネーションが飾られ、静かにクラシック音楽が流れる。

「この季節は特別です」と佐伯さんは言った。「年の終わりと始まり。過去と未来が交差する時期ですから」

冬の棚には不思議な本が並ぶ。未来や可能性について考えさせる本、過去を振り返る本、そして「約束」についての物語。

私は『雪解けの約束』という本を選んだ。それは、人生の岐路に立つ主人公が、過去の約束を思い出して新たな一歩を踏み出す物語だった。

読み終えた日、私は長年温めていた夢について考えていた。「いつか本を書きたい」という思い。社会人になってからは片隅に追いやられていた夢。でも、その炎はまだ消えていなかった。

翌日、思い切っていさかやを訪れ、佐伯さんに相談した。

「私、小説を書いてみたいんです」

佐伯さんは驚いた様子もなく、静かに頷いた。

「ここに来る人は皆、何かの『約束』を思い出していくんです。子供の頃の夢、大切な人との誓い、自分自身への pledgeなど…」

そして彼は奥から一冊のノートを取り出した。シンプルな革表紙で、まだ何も書かれていない。

「よかったら、これを使ってください。いさかやの本棚に並ぶ本は、すべて誰かの『約束』から生まれたものなんです」

そのノートを手に取ったとき、不思議な感覚に包まれた。まるで長い間探していたものを、やっと見つけたような。

それから私は週末ごとに、いさかやの読書スペースでノートに向かうようになった。書き始めると、不思議と言葉が溢れ出てくる。佐伯さんはそっと見守り、時々アドバイスをくれた。彼が元編集者だったことが、この時初めて腑に落ちた。

春が巡ってきた頃、私の小説は完成に近づいていた。主人公は季節のように変化し、約束を胸に生きる女性の物語。タイトルは『いさかやの四季』。

「完成したら、ぜひ読ませてください」と佐伯さんは言った。

そして桜が満開の日、私は書き上げた原稿を持って、いさかやを訪れた。

店に入ると、いつもと少し様子が違うことに気づいた。季節の棚の前に、新しい小さな棚が置かれている。「約束の本棚」と名付けられたそれは、まだ何も並んでいなかった。

「これは…?」と私が尋ねると、佐伯さんは「あなたのために用意しました」と答えた。

そして私の原稿を受け取り、大切そうに手に取る。

「いさかやには、もうひとつ秘密があります。ここで生まれた約束の物語は、次の読者に届くまで、この棚で待つことになるんです」

不思議な話だったが、この一年でいさかやの不思議には慣れていた。

「次の読者…ですか?」 「ええ。あなたの物語を必要とする誰かが、いつか訪れます」

それから一週間後、私がいさかやを訪れると、驚くべき光景があった。「約束の本棚」には、きちんと製本された一冊の本が置かれていたのだ。 タイトルは『いさかやの四季』、著者名は私の名前。

「どうやって…?」 「いさかやの魔法です」佐伯さんはそう言って微笑んだ。

その本は一冊しかなく、店外には出ないという。いさかやでしか読めない、特別な一冊。

「あなたの物語は、誰かの約束を思い出させるでしょう。そしてその人もまた、新しい物語を紡ぐかもしれない。そうやって物語は繋がり、季節は巡り、約束は守られていくのです

佐伯さんの言葉に、深い感動を覚えた。

それから数ヶ月後、私は再びいさかやを訪れた。約束の本棚を見ると、私の本は消えていた。

「誰かが読んだんですか?」と尋ねると、佐伯さんは静かに頷いた。

「若い女性でした。彼女も、何か大切なことを思い出したようです」

その話を聞いて、胸が温かくなった。私の言葉が誰かに届いたのだ。

それからも季節は巡り、私はいさかやに通い続けた。二作目、三作目の物語を書き、それぞれが約束の本棚に並び、そして誰かの手に渡っていった。

佐伯さんはある日、こう言った。

「いさかやは、言葉と時間の交差点です。ここで生まれた物語は、決して消えません。形を変え、場所を変え、それでも誰かの心に生き続ける」

私はいつか、いさかやについての物語も書こうと思っている。この不思議な本屋と、季節の魔法と、そこで生まれる約束について。そうすれば、いさかやの物語はさらに広がり、より多くの人に届くだろう。

もしあなたが東京の路地裏で「いさかや」という看板を見つけたら、どうぞ中に入ってみてください。四季の棚から、あなたに必要な本が呼びかけているかもしれません。そして、忘れていた約束を思い出すかもしれません。

季節は巡り、物語は続く。いさかやの魔法は、今日も誰かの心に寄り添っている。

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