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小説「時の狭間で – デジタルと現実を行き来する私たちの物語」

小説「時の狭間で - デジタルと現実を行き来する私たちの物語」

松本陽太は、スマホの通知音で目を覚ました。朝7時。画面には未読メッセージが10件以上点滅している。SNSの通知、メール、ニュースアラート…。まだベッドから出る前から、情報の波に飲み込まれる日常が始まっていた。

現代を生きる私たちは、常に二つの世界に存在している。現実の肉体を持つ世界と、デジタルの情報が流れる世界。その境界線が曖昧になりつつある時代に、本当の「今ここ」はどこにあるのだろう。

陽太は27歳、IT企業でSNSマーケティングの仕事をしている。毎日、クライアント企業のSNSアカウント運用やコンテンツ制作に追われる毎日。仕事柄、常に最新のトレンドをチェックし、デジタル空間の変化に敏感でいる必要があった。

スマホを手にリビングに向かう。朝食を取りながらも、片手には常にスマホ。無意識のうちにタイムラインをスクロールし、「いいね」を押し、コメントを書く。

同僚からの緊急のメッセージが入り、まだ食べかけのトーストを放り出して返信。「分かりました、すぐ対応します」と送信した途端、別の通知が鳴る。

陽太はふと立ち止まり、自分の行動を客観的に眺めてみた。朝起きてからの30分間、彼は一度も深呼吸すらしていなかった。何かに追われるように、情報に反応し続けていたのだ。

私たちは「便利さ」と「つながり」を求めてデジタルツールを手に入れたはずなのに、いつの間にか道具に支配される側に回っていないだろうか。

窓の外に目をやると、晴れた青空が広がっていた。そのシンプルな美しさに、不意に心が動いた。「これを写真に撮ってSNSに投稿したら…」という思考が自動的に浮かび、すぐに自己嫌悪感が押し寄せる。なぜ体験をそのまま味わうのではなく、共有することを先に考えてしまうのだろう。


その日のオフィスは特に忙しかった。クライアントからの急な要望変更で、予定していた投稿内容を一から作り直すことになった。チームメンバーとのビデオ会議、クライアントとのメールのやり取り、デザイナーとのチャット…。同時に複数のコミュニケーションを並行して行う。

昼食時間になっても、陽太はデスクを離れられなかった。コンビニのサンドイッチをかじりながら、片手でキーボードを打ち続ける。

「松本さん、ちょっといい?」

声をかけてきたのは、同じチームの川村だった。

「大丈夫、何?」陽太は画面から目を離さずに答えた。

「いや、大したことじゃないんだけど…」川村は少し遠慮がちに続けた。「最近、松本さんとまともに話せてない気がして」

その言葉に、ようやく陽太は顔を上げた。川村の表情には、少し寂しさが浮かんでいた。

「ごめん、忙しくて…」

「分かってる。みんな忙しいんだ。でも、隣に座ってるのに、いつもチャットでしか話してないって変じゃない?」

その指摘は、陽太の胸に響いた。確かに彼らは物理的には近い距離にいるのに、コミュニケーションのほとんどはデジタルツールを介して行われていた。効率的ではあるが、何かが失われているようにも感じる。

物理的な距離と心理的な距離は必ずしも一致しない。デジタルでつながっていても心は離れ、目の前にいても心は遠いこともある。大切なのは「どこで」つながるかではなく、「どう」つながるかなのかもしれない。

「そうだね…」陽太は素直に認めた。「今度、ランチでも行こうか」

川村の顔が明るくなった。「いいね!明日どう?」

その瞬間、陽太のスマホが鳴った。クライアントからの着信だ。

「ごめん、出なきゃ」

電話を取りながら、陽太は川村に申し訳なさそうな表情を見せた。川村は理解を示すようにうなずき、自分のデスクに戻っていった。


仕事を終えて帰宅した頃には、すでに外は暗くなっていた。疲れ切った陽太は、ソファに倒れ込むようにして横になった。手には習慣のようにスマホを握りしめている。

SNSを開き、何気なくスクロールする。友人の旅行写真、知人の食事の投稿、有名人のライフスタイル…。すべてが完璧に編集され、理想化された断片だ。

ふと、陽太は気づいた。この数時間、彼は何百もの「他人の人生の切り取り」を見てきた。でも自分自身の生活はどうだろう?今この瞬間、彼は実際に何を感じ、何を考えているのだろう?

スマホをテーブルに置き、目を閉じる。静寂の中で、自分の呼吸と鼓動に意識を向けてみた。久しぶりに感じる「今ここ」の感覚。心が少しずつ落ち着いていくのを感じる。

常に外からの刺激に反応し続けると、自分自身の内側の声を聴く余裕がなくなる。内なる声こそ、本当の自分を映す鏡なのに。

目を開けると、部屋の隅に置かれた本棚が目に入った。大学時代に読んでいた本たちが、しばらく手に取られないまま並んでいる。なんとなく立ち上がり、本棚に近づいた。埃をかぶった哲学書や詩集の背表紙に指を滑らせる。

一冊の本を手に取った。マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」。大学の文学講義で読んだきりだったが、何かに導かれるように開いてみる。

目に飛び込んできたのは、意識の流れと記憶についての美しい描写だった。プルーストは、日常の何気ない瞬間(マドレーヌを紅茶に浸す行為)から広がる記憶と時間の感覚について綴っている。

陽太は読み進めながら、自分自身も似たような体験があることに気づいた。幼い頃、祖母の家で飲んだほうじ茶の香り。高校時代、友人と見た夕焼けの色。大学のキャンパスで聞こえた風の音。

それらの記憶は、デジタルデータのように整理されているわけではない。断片的で、感情と結びついていて、時に不正確だけれど、確かに「自分の一部」として存在している。

記憶とは、単なる情報の蓄積ではなく、感覚や感情と結びついた体験の痕跡。デジタルが記録するものは「事実」かもしれないが、私たちの心が記憶するのは「意味」なのかもしれない。

陽太はふと、自分のSNSアカウントを開いてみた。何百もの投稿が並んでいる。それらは確かに彼の人生の記録だったが、どこか作られた感じがする。実際の記憶とSNS上の自分には、微妙なずれがあった。

「本当の自分はどこにいるんだろう」

その問いを胸に、陽太は久しぶりに紙のノートを取り出し、ペンを走らせ始めた。


週末、陽太は思い切って「デジタルデトックス」を試してみることにした。24時間、スマホの電源を切り、パソコンも開かない。最初は落ち着かず、何度も無意識にポケットを探る自分に気づいた。

「こんなに依存していたのか」と自己嫌悪に陥りそうになったが、それも一つの発見として受け入れることにした。

代わりに彼がしたのは、久しぶりの読書、部屋の掃除、そして近所の公園への散歩だった。何の目的もなく、ただ歩く。空を見上げ、風を感じ、周囲の音に耳を澄ます。

公園のベンチに座っていると、隣に老紳士がやってきた。杖をついた80代くらいの男性で、優しい表情をしていた。

「いい天気ですね」老人が声をかけてきた。

「はい、本当に」陽太は答えた。

何気ない会話から始まり、二人は30分ほど話し込んだ。老人は元大学教授で、哲学を教えていたという。デジタル時代の人間関係について、彼なりの見解を持っていた。

「昔と今で変わったのは、情報の量と速度だけじゃない。体験の質も変わった」老人は穏やかに語った。「昔は『待つ』ということが当たり前だった。手紙の返事を待つ。会いたい人に会うまで待つ。その『間』の時間が、期待や想像力を育てたんだよ」

「今はすべてがすぐに手に入りますからね」陽太が答えると、老人は微笑んだ。

「即時性には価値がある。でも、『待つ』ことで生まれる価値もあるんだ。どちらが良いとか悪いとかじゃない。大切なのは、両方の価値を知っていることさ」

即時性と待つこと、効率と余白、つながりと孤独。相反するように見えるものの間に、豊かな生き方のヒントがあるのかもしれない。

別れ際、老人は一冊の小さな本を陽太に渡した。「良かったら読んでみて。もう一冊持っているから」

それは鈴木大拙の「禅と日本文化」という本だった。


月曜日、オフィスに戻った陽太は、少し変わっていた。メールやチャットへの反応は相変わらず素早いが、一つひとつの返信により丁寧さが感じられるようになった。また、川村との約束どおり、二人は実際に外でランチを取ることにした。

「デジタルデトックス、どうだった?」カフェのテーブルで向かい合いながら、川村が尋ねた。

陽太は考えながら答えた。「正直、最初は禁断症状みたいなのがあったよ。でも、だんだん自分の思考や感覚に向き合う時間ができて…いい経験だった」

「へえ、私もやってみようかな」

「ただ、デジタルが悪いわけじゃないんだよね」陽太は続けた。「むしろ仕事でも私生活でも、すごく便利で可能性を広げてくれる。問題は使い方というか…主従関係かな」

川村はうなずいた。「確かに。いつの間にか、私たちがツールに使われてるような感じになるよね」

ランチの間、二人は珍しく仕事の話をせず、趣味や将来の夢について語り合った。オフラインでの会話は、オンラインとは違う温かさがあった。

デジタルかアナログか、オンラインかオフラインかという二項対立ではなく、それぞれの良さを活かし、状況に応じて選択できる柔軟さが大切なのかもしれない。


それから1ヶ月、陽太は少しずつ自分なりのバランスを探り始めた。

毎週日曜日の午前中は「デジタルフリー」の時間に設定。その間は公園を散歩したり、カフェで読書したり、時には何もせずにぼんやりと過ごしたりする。

仕事では、チャットや電話だけでなく、直接会話の機会を意識的に増やした。また、集中して作業をする時間帯は通知をオフにし、定期的に休憩を取るようにした。

SNSの使い方も変わった。毎日何回も投稿するのではなく、本当に共有したい瞬間だけを選ぶようになった。また、他人の投稿を見る時間も制限し、代わりに実際の体験により多くの時間を使うようにした。

ある日、陽太は「時の狭間」というタイトルのブログを始めることにした。デジタルとアナログ、オンラインとオフライン、効率と余白…そういった「間」にある豊かさについて綴るブログだ。

最初の記事のタイトルは「今ここにいるということ」。デジタルデトックスの体験や、公園で出会った哲学者との会話を中心に、現代人の時間感覚について書いた。

今この瞬間を生きるということは、過去や未来に囚われず、かといって現在だけに固執するのでもなく、すべての時間の「間」に存在すること。それは難しいけれど、デジタルの洪水に溺れないための大切な錨になる。

予想外に、この記事は多くの人の共感を呼んだ。「自分も同じことを感じていた」「バランスの取り方が分からなかった」という声が集まり、小さなコミュニティが形成され始めた。


半年後、「時の狭間」ブログは、デジタルとリアルのバランスを探る人々の集いの場になっていた。オンラインでの対話だけでなく、時々オフラインでの読書会やワークショップも開催されるようになった。

ある読書会で、陽太は興味深い人物と出会った。河野美月という女性で、デジタルデトックスキャンプを主催しているという。

「松本さんのブログ、いつも読ませてもらってます」美月は自己紹介の後に言った。「特に『デジタルの海で溺れないための呼吸法』という記事が印象的でした」

「ありがとうございます」陽太は照れながら答えた。「河野さんのキャンプも興味深いですね。具体的にはどんなことをするんですか?」

美月は熱心に説明してくれた。3日間の合宿形式で、参加者は電子機器を一切使用せず、自然の中で過ごす。瞑想や呼吸法、アート活動、対話セッションなどを通じて、自分自身と向き合う時間を持つのだという。

「次回のキャンプ、ぜひ参加してみませんか?松本さんのような視点を持つ方がいると、参加者にとっても刺激になると思います」

陽太はその誘いに心惹かれた。彼自身、デジタルデトックスの短い経験から多くのことを学んだが、より深く探求する機会はなかった。

「ぜひ参加してみたいです」


デジタルデトックスキャンプは、山梨県の静かな山間の施設で行われた。参加者は20人ほどで、年齢も職業も様々だった。初日、全員が持参した電子機器を特別なボックスに預け、3日間の「デジタルなし」の生活が始まった。

最初は時計がないことの不便さや、習慣的にスマホを確認できないことの落ち着かなさを感じた参加者も多かった。しかし時間の経過とともに、その「不便さ」が新たな気づきをもたらしていった。

朝は鳥の声で目覚め、時間は太陽の位置で感覚的に把握する。食事は参加者全員で準備し、夜は焚き火を囲んで対話を深める。

2日目の夕方、美月が主催する「時間の感覚」というワークショップが行われた。参加者は目を閉じ、1分間だと感じたところで手を挙げるという単純なものだった。

驚いたことに、参加者の「1分」は30秒から2分まで大きくばらついた。陽太の「1分」は実際の時間より長く、1分30秒ほどだった。

「面白いですね」ワークショップ後、陽太は美月に感想を伝えた。「デジタル機器に囲まれていると、正確な時間を常に把握できるけど、その代わり主観的な時間感覚が鈍ってしまうのかもしれません」

美月はうなずいた。「そうですね。デジタル時代以前、人間は自然のリズムや体内時計に合わせて生きていました。それが今では、機械の時間に合わせて生きるようになっている」

時計は時間を測る道具のはずなのに、いつしか時間が私たちを測る道具になってしまった。本来の主従関係を取り戻すには、時々「計測されない時間」の中で生きることも必要なのかもしれない。

その夜、焚き火を囲んだ対話セッションで、参加者それぞれが自分の「時間との関係」について語り合った。仕事に追われる会社員、子育てに忙しい母親、引退後の時間の使い方に悩む高齢者…それぞれの語りには共通点があった。

現代社会では「忙しさ」が美徳とされがちで、「何もしない時間」に罪悪感を覚える。しかし本当に創造的で意味のある時間は、しばしば「余白」から生まれるのではないか、という気づきだ。


キャンプ最終日、参加者たちは「これからの時間との向き合い方」について、自分なりの小さな決意を紙に書いた。

陽太が書いたのは、「デジタルとアナログの間に、第三の道を見つける」という言葉だった。

キャンプを去る前、彼は美月に声をかけた。

「素晴らしい体験をありがとうございました。実は提案があるんです」

陽太は自分のブログ「時の狭間」と美月のデジタルデトックスキャンプのコラボレーションを提案した。オンラインとオフラインの良さを融合させた新しいコミュニティづくりだ。

美月の目が輝いた。「その発想、素敵ですね。デジタルを否定するのではなく、より意識的に活用する道を探る。ぜひ一緒にやりましょう」


それから1年、陽太と美月の試みは「いさかや」というプロジェクトへと発展した。「居酒屋」のようにくつろぎながら深い対話ができる場所という意味を込めて名付けられた。

オンラインでのブログやSNSコミュニティと、オフラインでのワークショップやリトリートを組み合わせたハイブリッドな形で運営され、少しずつ参加者が増えていった。

陽太自身も変わった。以前のようにデジタルの波に飲み込まれることはなくなり、オンラインもオフラインも意識的に選択できるようになった。

ある日、彼は川村と一緒にカフェに座っていた。

「いさかや、順調みたいだね」川村がコーヒーを飲みながら言った。

「うん、思ったより多くの人が同じことを感じてたみたい」

「デジタルとアナログの狭間で、バランスを探している人が多いんだね」

陽太はうなずき、窓の外を見た。雨上がりの街には、美しい虹がかかっていた。彼はスマホを取り出したが、すぐに写真を撮るのではなく、一度深呼吸して風景をしっかりと目に焼き付けた。それから美月に送る短いメッセージと共に一枚の写真を撮った。

デジタルもアナログも、ツールであって目的ではない。大切なのは、それらを通して何を感じ、何を伝え、誰とつながるか。そして時に、すべてのツールから離れ、ただそこに存在することの豊かさを味わうこと。

美月からすぐに返信が来た。 「素敵な虹ですね。今度の週末のワークショップでは『自然からのメッセージ』をテーマにしてみませんか?」

陽太は微笑みながら川村に画面を見せた。「次のワークショップのテーマが決まったみたい」

「いいね、私も参加してみようかな」川村が言った。「スマホは持っていけるの?」

「もちろん」陽太は笑った。「でも、使うかどうかは自分で決めるんだ」

二人は静かに笑い合い、目の前のコーヒーと会話を楽しむことに戻った。窓の外の虹は、すでに薄れ始めていたが、その瞬間の美しさは二人の記憶に刻まれていた。

言葉にならない感覚、デジタルでは共有しきれない体験、そして時の狭間で生まれる小さな気づき。陽太は「いさかや」というプロジェクトを通じて、そういった豊かさを多くの人と分かち合っていきたいと思った。

小説「時の狭間で - デジタルと現実を行き来する私たちの物語」

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