東京の裏通り、古い木造建築が立ち並ぶ一角に「いさかや」という小さな喫茶店がある。看板はなく、ただ軒先に吊るされた藍色の暖簾だけが目印だ。
店の入り口は少し低く、背の高い人は頭を下げなければならない。 これは昔から変わらない。まるで「ここはあなたの日常とは違う場所ですよ」と教えてくれているかのように。
木目の美しいドアを開けると、温かい珈琲の香りと古い洋書の匂いが混ざった独特の空気が迎えてくれる。店内は思ったより広く、壁一面の本棚と、窓際に並ぶ5つのテーブル。奥にはカウンターがあり、そこに立つのは店主の佐伯。
「いらっしゃい」
佐伯の声は低く、しかし不思議と店内のどこにいても聞こえる。彼の年齢は定かではない。30代後半にも見えるし、50代にも見える。訊ねる者はいない。それがこの店の暗黙のルールのひとつだった。
私がいさかやを初めて訪れたのは3年前の雨の日だった。道に迷って偶然見つけた店。その日から週に一度は足を運ぶようになった。
「いつもの?」と佐伯が聞く。 「お願いします」と答える私。
いつもの、というのはブレンドコーヒーと店主特製のレモンケーキ。このレモンケーキには秘密がある。どこか懐かしい味なのに、一度も食べたことのない新鮮さがある。 不思議なバランスだ。
窓際の席に座り、本棚から適当に一冊を取る。『時の地図』というタイトルの古い本。著者名はない。開いてみると、それは小説ではなく、様々な時代の人々の日記のような文章が綴られていた。
「それは特別な本だよ」
気づけば佐伯が私の横に立っていた。コーヒーとケーキを置き、少し微笑む。
「特別?」 「うん。その本は読む人によって内容が変わる」 「そんなことあるんですか?」 「この店にはそういうことが起こる」
佐伯はそれだけ言うと、カウンターに戻っていった。半信半疑で本を読み進めると、確かに不思議な感覚に襲われた。まるで私自身の過去と未来が交錯するような記述。しかし具体的な内容は、読み終えた途端に忘れてしまう。
他の常連客も似たような体験をしているようだった。いさかやには不思議な引力がある。一度足を踏み入れると、また戻ってきたくなる場所。 それは店の雰囲気だけでなく、ここで出会う人々や物語のせいかもしれない。
私が通い始めてから気づいたことがある。いさかやには様々な人が訪れるが、皆どこか「境界線上」にいる人たちだということ。人生の岐路に立っている人、大切な決断を前にしている人、または過去から逃れたい人。
あの老紳士は、妻を亡くした悲しみから立ち直ろうとしている。窓際でいつも同じ席に座る女子高生は、将来の夢と現実の間で揺れている。カウンターで黙々とコーヒーを飲む中年男性は、会社をたたむか続けるか、決断の時を迎えていた。
そして私もまた、何かの境界線上にいた。それが何なのか、まだ自分でもわからなかったけれど。
ある夕暮れ時、店内がオレンジ色に染まる頃。私はいつものように窓際の席で本を読んでいた。と、突然ドアが開き、若い男性が慌てた様子で駆け込んできた。
「すみません、この辺りに『いさかや』という店はありませんか?」
彼は私ではなく、佐伯に向かって尋ねた。私は不思議に思った。ここがいさかやなのに、なぜ?
佐伯は穏やかに微笑み、「ここがそうですよ」と答えた。
若い男性は困惑した表情を浮かべる。「いや、それは…」
彼の話によると、彼は10年前に「いさかや」という名の古本屋で買った本の中に、大切な人からの手紙が挟まれていたことを最近思い出したという。その手紙を取り戻すために古本屋を探していたのだ。
「ここは喫茶店です」と私は言った。 「でも10年前、確かにここは古本屋だった」と佐伯が静かに告げる。
その瞬間、店内の空気が少し歪んだように感じた。 窓から差し込む夕日の光が揺れ、一瞬だけ店の姿が変わったように見えた。本棚の位置が違う。カウンターがない。そこは確かに古本屋の姿だった。
「記憶というのは不思議なものです」佐伯は続ける。「場所の記憶、人の記憶、時の記憶…それらは時に交差し、重なり合う」
若い男性は戸惑いながらも店内を見回した。そして突然、本棚の一角に目を留めた。躊躇なく歩み寄り、一冊の本を手に取る。『海と星の間で』というタイトル。
彼が本をパラパラとめくると、黄ばんだ封筒が一枚、床に落ちた。彼の顔に安堵の表情が広がる。
「ここにあった…」彼は震える声で言った。「ずっと探していたんです」
佐伯はただ静かに頷いた。若い男性は深くお辞儀をし、手紙を大事そうに胸ポケットにしまうと、来た時と同じように慌ただしく店を出て行った。
「彼は見つけたんですね」私は言った。 「うん、彼の求めていたものをね」
佐伯の答えは曖昧だった。でも、それがいさかやというものだ。曖昧で、不思議で、それでいて確かな存在感を持つ場所。
店には時おり、そんな不思議な出来事が起こる。 しかし不思議なことに、それを怪しいとは思わない。ただ「ああ、また起きたな」と受け入れてしまう。それほど自然に、いさかやは日常と非日常の境界線上に存在している。
その日以来、私はいさかやの本当の姿について考えるようになった。この店は単なる喫茶店ではない。佐伯も単なる店主ではない。彼らは何かの「媒介者」なのかもしれない。過去と未来、現実と記憶、人と人との間を取り持つ存在。
雨の日のいさかやは特に魅力的だ。窓を伝う雨粒が作る影が店内に模様を描き、外の喧騒を遠ざける。そんな日は常連客も少なく、佐伯との会話が弾む。
「いさかや」という名前の由来を尋ねたことがある。
「”居酒屋”ではないから”いさかや”」と佐伯は笑った。「言葉遊びが好きでね」
後でわかったことだが、「いさか」には「些細な争い」という意味もある。人生の些細な争いや迷いを抱えた人が立ち寄る場所。だからいさかや。そんな気がした。
今日も私はいさかやに向かっている。少し肌寒い秋の夕暮れ。この店に来るといつも、何か大切なことを思い出す気がする。まだ見ぬ記憶、これから生まれる思い出。 それは矛盾しているようで、いさかやの中では自然なことに思える。
ドアを開ける前、ふと空を見上げた。夕焼けが美しい。この景色も、いさかやという物語の一部なのだろう。
人生に迷ったとき、立ち止まりたいとき、何かを取り戻したいとき。 東京のどこかにある「いさかや」を探してみてください。 あなたが本当に必要としているなら、きっと見つかるでしょう。
あなたも「いさかや」の物語の一部になる日を、私は静かに待っています。