
朝7時、目覚ましのアラームが鳴り響く。高田真一は腕を伸ばしてスマホのスヌーズボタンを押した。「あと5分だけ…」そう思いながら、もう一度目を閉じる。でも彼の心はすでに目覚めていた。「今日も同じ一日が始まる」という思いが頭をよぎる。
私たちは毎日同じ時間に起き、同じ電車に乗り、同じオフィスで同じ仕事をこなす。この繰り返しの中に、本当の自分はどこにいるのだろう?
真一は30歳、都内のIT企業で働くプログラマーだ。会社では「できる人」と評価されていて、昇進も早いほうだった。外から見れば「順調な人生」そのものだろう。
でも最近、彼の心には確かな空虚感が広がっていた。
「本当にこれでいいのか」
その問いは、毎朝の電車の中で、コードを書いている時に、そして夜布団に入ってから、繰り返し彼の心に浮かんできた。
その日のオフィスは、いつもと変わらず忙しかった。新しいプロジェクトの締め切りが近づいていて、チーム全体が緊張感に包まれていた。真一はコードを書きながら、ふと窓の外に目をやった。
青空に浮かぶ雲がゆっくりと形を変えている。「あの雲は何も考えていない。ただそこにあるだけだ」と思った瞬間、彼の手は止まった。
雲はどこへ向かっているわけでもない。それでも美しく、意味がある。なのに人間はなぜいつも「向かうべきところ」を探してしまうのだろう。
「高田さん、このコードを確認してもらえますか?」
同僚の声で我に返った真一は、慌ててモニターに視線を戻した。「あ、ごめん。ちょっと考え事をしてた」
その日の残業は夜10時まで続いた。ようやく家に帰り着いた真一は、冷蔵庫からビールを取り出し、小さなベランダに出た。都会の夜景が広がっている。何百万もの光が、それぞれの物語を持つ人々の存在を示していた。
「みんな何を考えて生きているんだろう」
独り言を呟きながら、彼は小さな発見をした。日常の隙間—電車を待つ間、エレベーターに乗っている間、コーヒーを入れる間—そんな「何もない時間」こそ、自分自身と向き合える貴重な瞬間ではないかと。
翌日から真一は意識的に「隙間の時間」を大切にするようになった。
朝の通勤電車では、スマホを見る代わりに窓の外の景色を眺めた。コンビニでの支払いを待つ短い時間には、自分の呼吸を意識した。ランチの後のコーヒーを飲む3分間は、ただ味わうことに集中した。
忙しい日常の中で「何もしない時間」を意識的に作ることは、現代社会では小さな反逆かもしれない。
最初は落ち着かなかった。常に情報を得たり、何かをしたりすることに慣れた脳が、「暇つぶし」を要求してくる。でも1週間も続けていると、少しずつ変化が訪れた。
「高田さん、最近なんか変わった?」チームリーダーの山下が昼食時に尋ねてきた。
「え?そう見える?」
「うん、なんていうか…落ち着いた感じがする。プレゼンの時も、前より自然に話せてたと思う」
真一自身も感じていた変化だった。常に次の行動や目標を考えるのではなく、「今ここ」にいることを意識するようになってから、不思議と心に余裕が生まれていた。プログラミングの作業効率も上がり、以前なら見落としていたバグにも気づけるようになった。
ある土曜日の午後、真一は本屋で偶然、禅に関する本を手に取った。そこには「平常心是道」という言葉が紹介されていた—「普段の心こそが道である」という意味だ。
この言葉に、彼は深く共感した。特別な場所や時間だけでなく、日常の中にこそ真理があるという考え方。隙間の時間で「ただそこにいる」ことを実践していた彼にとって、しっくりくる思想だった。
本の終わりには著者のワークショップの案内があった。場所は自宅から電車で30分ほどの場所。「行ってみようかな」と思いつつも、日曜日はいつも寝坊して過ごす習慣があった。でも今回は違った。「今の自分に必要なものかもしれない」そう思って参加を決めた。
ワークショップには15人ほどが集まっていた。年齢も職業も様々な人たちだ。初めは居心地が悪かったが、呼吸法や瞑想の実践を通して、少しずつ場の空気に溶け込んでいった。
他人と比較せず、競争もせず、ただそこにいる。それだけで十分価値がある存在だということを、私たちはどこかで忘れてしまっている。
ワークショップで真一が最も印象に残ったのは、「二元論を超える」という考え方だった。成功か失敗か、幸せか不幸か、そういった白黒はっきりした評価軸ではなく、すべてのものごとには多面性があるという視点。
「私は成功している」と「私は失敗している」という二つの考えは、実は同時に存在しうる。それは矛盾ではなく、人生の豊かさの表れなのだと。
ワークショップから帰る電車の中で、真一はノートを開いた。久しぶりに自分の気持ちを書き出してみる。
「僕は本当は何がしたいんだろう?」
そう書いてみて、意外な答えが浮かんできた。それは「誰かの役に立ちたい」という思いだった。プログラマーとしての仕事も、確かに社会の役に立っている。でも、もっと直接的に人とつながるような何かがしたいという気持ちがあった。
その夜、真一は小さな決断をした。会社を辞めるわけでも、生活を劇的に変えるわけでもない。でも、自分の経験や気づきを誰かと共有できるブログを始めることにした。タイトルは「隙間の哲学」。毎日の小さな発見や気づきを綴るシンプルなものだ。
最初の記事は「電車の窓から見える雲の話」。特別なことは書いていない。ただ、日常の何気ない瞬間に感じた思いを素直に表現しただけだ。
完璧を求めず、等身大の自分をそのまま表現する。それは勇気のいることだけど、そこから本当のつながりが生まれるのかもしれない。
投稿して数日後、思いがけずコメントが届いた。
「私も同じことを感じていました。でも言葉にできなかった。あなたの文章を読んで、自分一人じゃないんだと思えました。ありがとう」
見知らぬ誰かとの小さなつながり。それは真一にとって、新しい喜びだった。
それから3ヶ月が過ぎた。真一の「隙間の哲学」ブログは少しずつ読者が増えていた。毎日更新するわけではなく、週に2回ほど、自分の心が動いたときだけ書くというスタイルを続けている。
「成功」や「結果」を追い求めるのではなく、プロセスそのものを大切にする生き方。それは遠回りに見えて、実は自分らしい人生への近道なのかもしれない。
会社での仕事も続けている。以前と同じ業務をこなしているが、その意味づけが変わった。「キャリアアップのため」ではなく「今この瞬間、目の前の課題に最善を尽くす」という姿勢で取り組むようになった。不思議なことに、そうした意識の変化が周囲の人との関係性にも良い影響を与えていた。
ある日の昼休み、新入社員の田中が真一に相談を持ちかけてきた。
「高田さん、プログラマーとしてこの先どう成長していくべきか悩んでいて…」
以前の真一なら、技術的なスキルアップの方法や資格取得の重要性を語っただろう。でも今回は違った。
「田中くん、『成長』って何だと思う?」
その問いかけから二人の間で深い対話が始まった。技術や知識を増やすことだけが成長ではなく、自分自身と向き合い、自分の内側から湧き出る関心や情熱に気づくことの大切さについて。
帰り際、田中は「また話を聞かせてください」と言った。その言葉に、真一は心が温かくなるのを感じた。
週末、真一はブログの読者から誘われたカフェ会に参加した。オンラインでつながっていた人たちと実際に会うのは初めてのことで、少し緊張していた。
カフェに入ると、すでに5人ほどが集まっていた。「あ、高田さんですか?ブログいつも読んでます」と声をかけられ、徐々に会話が弾んでいく。
参加者それぞれが「隙間の時間」で見つけた小さな発見や実践を共有した。育児の合間に見つけた自分時間の大切さ、通勤時間を瞑想に充てることで得られた気づき、仕事の休憩時間に窓の外を眺める習慣から生まれた創造性…。
人はそれぞれ違う人生を歩んでいるようで、根本的な部分では同じ悩みや喜びを共有している。その普遍性に気づくとき、私たちは孤独ではなくなる。
真一はこの集まりを「いさかや」と名付けることを提案した。居酒屋のように気軽に集まれて、でも深い対話ができる場所。みんなの心に響いたようで、その名前はすぐに定着した。
それから1年後、「いさかや」は小さなコミュニティに成長していた。オンラインでのつながりを中心に、時々リアルな集まりも開催される。真一のブログは「いさかや」というサイト名に変わり、他の参加者も記事を投稿するようになった。
真一自身も変わった。以前のように「成功」や「評価」に囚われることが少なくなり、今この瞬間を大切にする生き方が自然とできるようになってきた。もちろん完璧ではない。時には焦りや不安に駆られることもある。でも、そういった感情もただ観察できるようになってきた。
ある日の夕方、会社帰りに立ち寄った公園のベンチで、真一は空を見上げていた。夕暮れ時の空は、オレンジと紫が混ざり合う美しいグラデーションを描いている。一羽の鳥が悠々と飛んでいくのを見て、彼は静かに微笑んだ。
「向かうべき場所」を探し続けるのではなく、「今いる場所」の美しさに気づくこと。それが本当の豊かさなのかもしれない。
スマホを取り出し、その光景の写真を撮った。「いさかや」サイトの新しい記事のイメージだ。タイトルはもう決まっている。
「隙間の時間で見つけた本当の自分」
真一はそっとメモアプリを開き、浮かんできた言葉を書き留めた。
「人生は目的地ではなく、旅の過程そのものなのだと気づいたとき、すべての瞬間が意味を持ち始める。」
彼の心には確かな平和が広がっていた。それは華やかな成功や達成感とは違う、静かだけれど深い満足感。日常の隙間で見つけた、本当の自分との出会いが与えてくれた贈り物だった。